【浜松人の考え方】浜松城は出世城?徳川家康や土地柄の云々…
大河ドラマに、ちらっとですが、後の徳川家康である少年が出てきました。今川家の軍師、雪斎の死の場面です。
家康と浜松は切っても切れない間柄。
のはずなのに、浜松に来て常々感じることですが、ここ浜松ではお殿様の存在が非常に希薄です。それはもう、本当に希薄です。
一時期私は岡山に住んだことがありましたが、後楽園で有名なように、岡山では池田候の存在が結構色濃かったりしたように思うのです。
日常的に候の名前を耳にする機会も多かった気がします。
でも、ここ浜松では、浜松城の城主のことなんか誰も口にしません。
浜松城を造ったのは家康ですが、家康はそれほど長くここには住まず、徳川時代には何度も城主が変わっています。
浜松は比較的出世株と目されている人が城主にされた、ある意味重要な土地だったようなのですが、その代々の城主は、出世のための成績を上げることに血道を上げ、子々孫々までこの土地を治めるという感覚がなかったようで、土地の人間にとって「よい殿様」という人は殆どいなかったようなのです。
しかし、浜松を治めた城主はどんどん幕閣で出世していきました。
ですから、浜松城は「出世城」と呼ばれて、そういう名前のお酒もあって、なかなか縁起物だったりします。
でも、浜松の人に聞くと、何人もいる殿様が誰だったかなど、誰も知らなかったりします。
では、家康に親近感があるかというと、なんだかそういうことは全くなさそうなのです。
少女の頃山岡荘八の「徳川家康」ファンだった私は、他の土地の生まれであるにもかかわらず、比較的家康に親近感を持っていました。
ある時家人に、
「この辺の人は、徳川家康の小説なんか、よく読んだりするの?」
と聞くと、
「全然だな。」
と、どーでもいい返事。
「え~~?でも、地元の有名人じゃん?!」
「家康なんて、大体、キライだしな。」
「き、キライなの?!?ええ~~~????」
「家康に親近感を持ってるのは駿河だけで、遠州ではそれほどでもないな~。
大体、江戸時代はろくなことなかったもんな~。
城主はしょっちゅう入れ替わるし、統治もよくなかったから、打ち壊しなんて浜松では沢山あったぜ~。
だから遠州人は官僚とか、上を信用しないんだ。自分たちの力でやるしかないって、わかってるんだな。長いものに巻かれろとか、キライなんだな。」
そうだったのか~。
確かに浜松、民衆パワーがすごくて、織機なんかも発明したのは浜松だし、オートバイも浜松からです。
浜松ではオートバイのことを「ポンポン」と言ったそうです。
ホンダもスズキも浜松です。
トヨタなんかは名古屋の方に行っちゃったけれど、遠州が発祥なのは誰でも知っています。
生産性の高いものを独自に産み出してくるのが非常にうまいんだな~という気がします。
文化の熟成というものとはちょっと離れてはいますが、生活第一で、合理的な志向です。
そういえば思い出したことがあるのですが、先日、浜松城の石垣の石が盗まれたというニュースを見ました。
浜松城のお城自体は戦後につくったものだそうですが、石垣はちゃんとした浜松城築城当時のものだそうです。
それを盗んで、どうするんでしょうか。
やっぱり、売るんでしょうか・・・。
ひどいことをする人もいるものだと思いますが、しかしそれにしても、よその土地から来た私の感じるところは、どうも浜松城ってなんだか浜松の人からホトンドどうでもいいような扱いを受けているな~と思うのです。
言うまでもなく浜松は家康ゆかりの土地ですから、たとえばもっと浜松城とか家康にちなんだお菓子などもあってよいと思うのですが、そういうものもありませんし。
うなぎパイは全国区の優秀な地方名菓だとは思いますが、家康は関係ないですもんね。
浜松城を建て直そうという声もあるようですが、イマイチ市民の反応も鈍いようです。
岡山城や松本城、熊本城などを見ると、なんだかやっぱりその土地の中心的な扱いを受けていますし、市民もそれを誇りに思っている様子がうかがえます。
まあ、規模的にもそれらと比べても仕方がないのでしょうが、浜松城って、一応あるけど市役所の後ろに押し込められてるというか、日陰・・・・とうか、なんだかそういう印象を受けるのです。
存在自体が薄い・・・というんでしょうか。
「だいたいおれらは家康自体が興味ないんだ」
とは家人の談。
「ええ~~~?!だって、有名人じゃん!天下統一したし!!地元の名士じゃん!」
「でも特にな~。浜松には10年いたけど、あとは静岡だしな。大体浜松城自体にいい印象がないんだ。浜松人は」
浜松城は出世城と言われています。
家康にとっても、浜松は大事な土地だったらしいのですが、しかし静岡のような扱いは受けませんでした。
浜松城は、終始一貫した城主が統治したのではなく、その時々の幕府の出世株の城主がしばらくの間だけやってきて統治したのです。
なので浜松城には殿様が沢山います!
ある意味重要な土地だったからこその扱いだとは思いますが、その代々の城主は、出世のための成績を上げることに心血をそそぎ、子々孫々までこの土地を治めるという感覚がなかったようで、土地の人間にとって「よい殿様」という人は殆どいなかったようなのです。
江戸時代にはよく一揆が起こったそうです。
統治が一貫していないと、文化も育ちにくいです。
当然、生活重視型の土地柄にもなるでしょう。
浜松を治めた城主はどんどん幕閣で出世していきました。
ある種縁起の良いお城ではあったかもしれませんね。
でも、浜松の人に聞くと、何人もいる殿様が誰だったかなど、誰も知らなかったりします。
特に尊敬している様子もありません。
搾り取られた江戸時代の恨みが遺伝子に刻まれているのでしょうか~。