川名(かわな)は
三岳山の山懐にある
静かな山里です

 

「川名のひよんどり」は
中世の姿を
今に伝える祭です

 

そして川名は
井伊(いい)家と深い
つながりのある
里なのです

 

 

川名には
直虎が生きた証が
残されており

 

戦国時代を駆け抜けた
直虎の曾祖父 直平(なおひら)も
静かに眠っているのです

 

 

「川名のひよんどり」
が行われる
福満寺八日堂は
行基の建立と
伝えられますが
何度か焼失と再建を
繰り返しています

 

応永三十三年(一四二六)
井伊家の一族で
渋川に本拠を置く
井伊直貞が
福満寺を再建した記録が
残っています

 

直貞は
薬師如来を安置し
「ひよんどり」の
お祭りを始めました

 

井伊家の拠点
川名には
猿楽者 山伏 連歌師などが集まり
祭事や舞を伝え
「川名のひよんどり」として
長く伝えられることとなりました

 

 

いつしか
本尊の薬師如来の前で
「ひよんどり」の夜に
愛を誓うと
二人は必ず結ばれると
言われるようになりました

 

ひよんどりの
行われる
薬師堂の前で
約束するので
「堂約束」といい
近隣から若い男女が
お参りにやってくる
ようになりました

 

幼い頃の
井伊直虎といいなずけの
直親(亀之丞)も
曾祖父直平に
つれられて
やって来ました

 

 

三岳山には
井伊家の重要な城
三岳城があり
南北朝時代
(1336~1392年)
には主戦場となりました

 

南北朝の戦いで
南朝方の井伊家は敗れ
北朝である今川家の
支配下におかれることと
なりました

 

三岳城を奪われた
直虎の曾祖父直平は
この城を奪還する機会を
うかがって
よく川名に滞在していました

 

直平の家来の大石作左衛門は
川名に住んでおり
南北朝の戦いの後
井伊家から分かれた一族も
多く移り住んでいたのです

 

 

その後井伊家には次々と
災厄がふりかかってきました

 

井伊家は直平の孫
直盛が継ぎましたが
直盛には嫡男がいませんでした

 

そこで 直平の孫亀之丞(のちの直親)を
一人娘の姫(後の直虎)の
いいなずけとし
やがて井伊家を継がせようと
していました

 

 

ところが今川家は
亀之丞の父直満と
その弟直義を暗殺し 
亀之丞をも
差し出すように迫ったため
井伊家では亀之丞を
信州に逃がしました

 

直虎と亀之丞は
離ればなれに
なってしまいました

 

 

亀之丞は十年後に
信州から帰還し
直親と名を改めました

 

しかし直虎はすでに出家して
次郎法師と名乗っていましたので
直親は別の女性と結婚し
直盛の後を継いで
井伊家の当主となりました

 

しかしこの直親も
虎松という男児をのこして
掛川で今川家に
謀殺されてしまいました

 

 

とうとう
幼い虎松以外
男子のいなくなった
井伊家の当主を
再び直平が
つとめることになりました
直平74歳のことでした

 

 

ところがここでも悲劇が起こります

 

直平は永禄六年(1563年)
今川から命じられて
合戦へ向かう途中
飯尾豊前守(いいおぶぜんのかみ)の屋敷
(今の曳馬城跡あたり)
で休憩し
奥方お田鶴(たづ)の方が
勧めた茶を飲んで
出発したところ
突然馬から落ちて
死んでしまいました

 

奥方に毒殺されたのではないかと
伝えられています

 

 

家来の大石作左衛門は直平を
さも生きているように見せかけ
川名まで運んで葬り 
自らも主君の後を追いました

 

直平を馬から下ろして
鎧を脱がせた場所が
「鎧橋」(よろいばし)と呼ばれています

 

直平の墓は鎧橋のすぐ上の
向山(むこうやま)にあり
位牌は渓雲寺(けいうんじ)に安置されています

 

 

直平の死によって
いよいよ男子の絶えた
井伊家は存亡の危機に
直面します
この時女性でありながら
当主を継いだのが
直虎でした

 

直虎は 直平の死を悼んで
永禄九年(一五六六)
川名の福満寺に
梵鐘を寄進しました

 

直虎も川名には
格別の思いがあったのです

 

鐘には「大檀那次郎法師」 
願主は「瀬戸四郎右衛門」と
刻まれていました

 

瀬戸四郎右衛門は
井伊家を支えた
豪商瀬戸方久のことです
この鐘は惜しくも
焼失してしまいました

 

(鐘の銘文)
大日本国遠江州伊那佐郡井伊郷川名村福満寺洪鐘也綴一偈銘之而巳
鳬氏元来己鋳成 三千刹界度群生
瑠璃殿上別無事 目報平安百八声
   大檀那  次郎法師
   願主   瀬戸四郎右衛門
   大工   太郎左衛門
   小区   助兵衛
   当村檀那 荘司右衛門
   同    太郎右衛門内方
   一村男女     敬白

 

永禄九丙寅年(一五六六)霜月吉日鋳之

 

 

井伊家は 直虎からやがて
虎松へと受け継がれ
虎松(直政)が徳川家に仕え
奇蹟的な出世をしていくことで 
再興を遂げました

 

井伊家の最も苦しい時代を
生き抜いた直平は
井伊家の興隆の
兆しを見ることなく
亡くなりましたが
その魂は今も川名の山野を
駆け巡っているのかもしれません

 

江戸時代になってからも
井伊家の手厚い庇護を受けた
川名のひよんどりは

 

五穀豊穣と
世の平安を祈りながら
連綿と受け継がれ

 

中世の面影を
今に伝えています

 

数々の争乱に
さらされた山里も
今は静かに人々を
見守っているのです

 

※統合によって新たに加わった東久留米木新田で長く継承されてきた
大念仏も素晴らしいお祭りです

 

川名には現在浜松市野外活動センターも設置され、多くの子どもや若者をやさしく迎え入れています

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