浜名湖の北 井伊谷は
古くから人が住む
豊かな土地でした

 

始祖が井戸の中から
生まれたという
不思議な伝承で始まる
井伊氏は
この地方の領主として
大きな勢力を持っていました

 

 

井伊氏は
南北朝の争乱が始まると
南朝方につき
後醍醐天皇の皇子
宗良親王を迎え入れて
奮戦しました
しかし 北朝軍に敗れ
今川家の支配下に
おかれることとなりました

 

戦国時代には
東に今川
西に織田
北は武田に囲まれて
小さな領地のあるじに過ぎない井伊氏は
生き残るために常に
綱渡りを強いられていました

 

そんな中
井伊家二十二代直盛のもとに
かわいらしい
姫が誕生しました

 

 

この姫こそ
井伊直虎を名乗り
井伊家の最大の

 

危機を救う
女城主となるのです

 

直虎は
のちに家康に仕え
徳川四天王と
呼ばれた
井伊直政を
育てあげました

 

 

「亀之丞さま
お待ちくだされ」
「姫は足が遅いのう」

 

父のいとこの亀之丞は
姫とは幼なじみ
二人はいつも一緒にいました 

 

三岳山が
夕日に照り映える頃になると
遊び疲れた二人は
手に手をとって
館に戻っていくのでした

 

木戸をくぐると
いつも姫は
「私は大きゅうなったら
亀之丞さまのお嫁さんに
なりとうございます」
とつぶやくのでした

 

亀之丞はぽっと頬を赤らめ
館に駆け込んでいきました

 

二人は親の決めた
いいなずけでしたが
姫の兄を慕うような
気持ちは
いつしか淡い恋心に
変わっていったのです

 

 

今川と武田の対立が深まると
亀之丞の父直満とその弟直義は
武田と通じたという疑いをかけられ
命を奪われてしまいました

 

今川義元は十歳になったばかりの
亀之丞をも差し出すように命じたので
天文十三年(一五四四)十二月二十九日
凍てつく夜に
亀之丞を「かます」の中に入れて
家臣 今村藤七郎が背負って
渋川まで連れて行きました

 

しかし そこへも追手が
迫り すぐに
渋川東光院の能仲和尚のはからいで
信州の松源寺まで
落ち延びさせました

 

亀之丞がいなくなったことを知った姫は
城山へ駆け上り
雪空にかすむ遠い信州の方角に
手を合わせました
「亀之丞さま どうかご無事で…
私はいつまでも
お待ちしております」

 

ところが亀之丞の消息は
ふっつり途絶えてしまいました

 

 

「南渓和尚様 どうぞ私を
仏様のお弟子にしてくださいませ」

 

ある日姫が思い詰めた様子で
井伊家の菩提寺龍潭寺を
訪れました
亀之丞の消息が途絶えて数年後
姫には別の縁談が
持ち上がっていたのです

 

「何を言う!そちは井伊家の
直系の跡取り 出家などできぬ」

 

南渓和尚は姫の父直盛の叔父でした
姫は日頃からこの大叔父を頼り
心を打ち明けていたのです

 

「ずっと亀之丞さまを
お慕いしていながら
他の方に嫁ぐことはできませぬ」

 

と言うや姫は 長い黒髪を
ばっさりと切り詰めてしまいました
生死も知れぬ亀之丞への
姫の一途な思慕が哀れで
南渓和尚は何も
言うことができませんでした
こうして姫は南渓
「次郎法師」となったのです

 

 

ところが十年ほど経った
弘治元年(一五五五)

 

なんと亀之丞は無事に
井伊谷へ帰ってきたのです

 

亀之丞は直親と名を改め
井伊家二十三代を
つぐこととなりました

 

しかし姫は出家していたので
直親に嫁ぐことはできません

 

直親は他の女性を妻とし
二人の間には
虎松という男の子も
生まれました

 

こうして井伊家は
新たな跡継ぎを得ることと
なったのです

 

 

なんという運命のいたずらでしょうか

 

川名のひよんどりの夜
松明の炎に照らされる村人たちに混じって
次郎法師の姿がありました

 

「お薬師様にお願いすれば
必ず結ばれるという
『堂約束』はどうなってしまったのでしょう
亀之丞様と一緒に
お薬師様に詣でたのに…」

 

亀之丞と遊んだ幼い日々が
ふと心に浮かびます

 

しかしそれも思い切らねば
なりません

 

次郎法師はひっそりと
龍潭寺に戻っていきました

 

 

井伊家の苦難は更に続きました
永禄三年(一五六〇)
桶狭間の合戦で
当主 井伊直盛をはじめとして
多くの家臣が命を失いました

 

そして永禄五年(一五六二)
直盛の後を継いだ直親は
徳川家康と通じているという疑いを掛けられ
またもや今川家に殺害されてしまったのです

 

 

残された井伊家の直系の男子は
直親の幼い子 虎松のみとなり
井伊家の運命はいまや
風前の灯火となりました

 

ここに至ってついに次郎法師は
女性でありながら
自ら井伊家を守ることを
決意したのです

 

これ以後
「井伊直虎」と名乗り
ただ一人愛した人の
忘れがたみ
虎松を一人前に育てることに
全力を傾けることとなりました

 

 

直虎は
重要な決断を果敢に
下していきました

 

ある時 家老小野但馬守が
今川氏真の要求してきtあ
「徳政令」を強引に進めようとしましたが
直虎はこれを拒み続けました

 

「徳政令」は民衆を救うため
という名目でしたが
井伊家を取り潰す策略と見抜き
これを断固として拒否したのです

 

 

 

徳川家康が陣座峠を越えて
井伊谷へ入り
井伊家が徳川と結ぶまでの
困難を極めた時期
直虎は井伊家や領民のために
働き続けました

 

※徳政令 高利にあえぐ民衆を救うためという名目で借金の減免や帳消しを命じた法令 これが実施されれば金貸しが立ちゆかなくなり税が途絶えて井伊家も困窮してしまう

 

 

 

元亀三年(一五七二)
三方原合戦の二ヶ月前
山縣昌景を
大将とする大軍が
井伊の支城である
井平城の
仏坂に迫ってきました

 

三方原合戦の前哨戦と伝えられる
「仏坂の合戦」です

 

井平城は落とされてしまいましたが
仏坂には村人の宝である
行基作と伝えられる
仏坂十一面観音があります

 

直虎はこの観音様が
戦いで焼失することを
おそれました

 

「我が名は井伊直虎
山縣殿 霊験あらたかな
観音様を無くしてはなりません」

 

大将山縣昌景はこれを聞き入れ
仏像は村人に守られて
無事に避難していきました

 

 

天正二年(一五七四)
鳳来寺にかくまわれていた
直親の子 虎松は
十四歳になり
井伊谷に戻ることができました

 

直虎は
この虎松に
井伊家のすべてを
託すことにしたのです

 

 

徳川家康の鷹狩りの日
直虎は虎松に
井伊家の女たちが
願いをこめて縫い上げた
手作りの小袖を着せ
家康に拝謁させました

 

「家康さま
我らは井伊肥後守 井伊直親に
ゆかりの者
これなるはその直親の忘れ形見
虎松にござります

 

なにとぞお召し抱えくださいますよう
伏してお願い申し上げます」

 

委細を知った家康は
家臣に取り立ててくれました

 

虎松は万千代という名をいただき
家康の家来として
めざましい活躍をしました

 

この後、井伊家二十四代
井伊直政を名乗り
徳川四天王の一人と
いわれるまでになります

 

 

直虎は直政の出仕を見届けると龍潭寺に戻り
井伊家再興を祈りつつ
動乱に倒れた井伊家一門の菩提を弔う静かな日々を送りました
「庵主さま 遊びましょう」毎日遊びに来る近くの童たちと日が暮れるまで遊ぶ
おだやかな晩年でした天正十年(一五八二)直虎は
ひっそりと息を引き取りました
四十数年の生涯だったと
伝えられています

 

 

文 柴田宏祐
絵 江川直美
企画 レディ・サムライ直虎研究会

 

※直虎の姿については諸説がありますが 本作品は数少ない史料に沿いながら
イメージをふくらませて描いた物語です

 

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