【完全版】宗良親王の足跡を漫画や記事で|浜松の偉人を知ろう!
井伊谷宮に安岡正篤漢詩碑建立。歴代総理の指南番安岡正篤先生のルーツは南朝。
漢詩碑
平成29年11月24日 井伊谷宮(いいのやぐう)境内に安岡正篤漢詩碑が建立されました。
井伊谷宮は、今年の大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台となった静岡県浜松市北区引佐町井伊谷に、丁度ドラマのヒロイン直虎が拠点とする龍潭寺(りょうたんじ)と背中合わせに位置しています。
龍潭寺とは地所がつながっていますので、龍潭寺を見学された方々が、そのまま井伊谷宮においでになったりするので、歴史を知りたいと社頭で書籍などをお求めになる方も増えています。
井伊谷宮
この井伊谷宮のご祭神は宗良親王(むねながしんのう)です。
井伊家は、古くから井伊谷を治め、南北朝時代にはこの宗良親王にお仕えした名門の家系です。ドラマの中でも「南朝の皇子」と
だけ触れられていました。
漢詩碑は、井伊家とともに戦った南朝の遺臣を先祖に持つ安岡正篤氏の漢詩を顕彰したものです。
以下、安岡正篤漢詩碑建立趣意書より抜粋いたします。漢詩碑建立の概要を記してあります。
「南北朝時代、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の第四皇子宗良親王はこの井伊谷の地にて旗揚げをされ、後には長らく南朝の柱石として各地でご活躍、戦いの中でご生涯を終えられました。
宗良親王をお迎えした井伊氏の治める井伊谷には、、南朝を慕う多くの武士が集まり、身命を賭して親王に仕えました。その誇りは今でもこの地に深く根付いているように感じられます。
地元出身の八十代のご婦人が「とても懐かしい。『君がため』の歌が宗良親王の御歌とは知らなかった。小学生のころ、この歌をうたって井伊谷宮に遠足に行き、参詣して神々しい気持ちになり、古戦場の三岳城に登ったことを鮮やかに思い出した」と語ってくださいました。
当時この地域では、吉野栄蔵氏(井伊谷尋常小学校校長などを歴任)などが中心となり、顕彰する教育活動が盛んでした。吉野氏は、「宗良親王」の唱歌も作られています。
昭和十年十一月二十四日 南朝の遺臣堀田氏を遠祖に持つ安岡正篤氏、信濃大河原の忠臣香坂氏の末裔香坂昌康氏がこの地に招かれ、井伊谷宮に参詣ののち、地元井伊谷尋常小学校で講演されました。
当時若く気鋭の陽明学者であった安岡正篤氏は、後に歴代総理の指南番とも言われ、日本屈指の碩学(せきがく)として名を残しました。終戦の詔書に最後の朱筆を入れ、平成の元号制定にあたっては「平成」を提案したとされています。
また、香坂昌康氏は、官僚出身で各地の知事を歴任され、当時は東京府知事でした。このような人士を井伊谷に迎えることは当時としても異例のことでした。
安岡氏は、この地を訪れた感慨を「井伊谷懐古」と題して漢詩に残されました。都を離れた土地で戦いに身を投じられた皇子の辛苦、南朝の忠臣たちの長年の艱難と忠義に思いを寄せた格調高い詩です。
安岡氏の遠祖堀田氏は、香坂氏とともに、宗良親王股肱(ここう)の臣の末裔です。また、堀田一族の堀田弥五郎正泰(ほったやごろう まさやす)は、楠木正行(くすのき まさつら)とともに四條畷(しじょうなわて)で戦死したことでも知られています。
この安岡正篤氏の漢詩を石碑に刻んだことは、井伊谷を本拠に戦った父祖らに思いを馳せ往古を偲ぶよすがとなるかと思います。」
<安岡正篤漢詩碑建立の会趣意書より抜粋>
漢詩碑写真
漢詩碑の内容を以下に記します。
井伊谷懐古三首 安岡正篤
漢詩 井伊谷懐古
安岡正篤著「童心残筆」島津書房 より
井伊谷(いいのや)は遠州引佐(いなさ)郡にあり 南風競はずの秋(とき) 井伊道政この地に拠り
宗良親王(むねながしんのう)を奉じて賊軍に抗す。香坂(こうさか)高宗・堀田正重らも力をつくして戦す。香坂昌康氏は高宗の末裔にして正重余(よ)の遠祖なり。
【 読み下し 】
一
月には劍光を想ひ松には軍を想ふ
凄風袂を拂うて鳥雲に迷ふ
怪しむ(來)蓑笠鋤を荷ふの影
猶是れ當年忠士の群
二
飄零百戰軫憂深し
草木應に悲しむべし 皇子の心
千首歌成る無限の恨
(親王和歌を善くしたまふ歌集あり李花集と曰ふ)
龍潭寺畔涙襟を沾す
三
山は古城を擁して周匝して在り
雲神廟を封じて自ら悠揚
龍潭の松籟金剛の月
宸藻拝し來って空しく斷膓
【 意 解 】
一
月をみては剣を思い 松風を聞きては軍をおもう
激しき風は袂を吹き上げ 鳥は雲のなかに迷う
怪しき蓑をつけ笠をかぶり 鋤をかつぐ影がいく
こは昔 農民に身をやつせし 忠臣の姿なり
二
百戦し落ちていく心の悲しさぞ
草木さえも皇子のお心をかなしむ
いく千首の和歌を詠まれしも恨みは無限に残る
(宗良親王は和歌をよくして「李花集」あり)
龍潭寺のほとり それを思えば涙は襟をうるおす
三
山は古き城を囲み
雲は神廟をつつみ 動きなし
龍潭寺の風の音 金剛の月
親王の文を拝せしも 何もできぬ断腸の思いぞ
意解 静岡県立大学名誉教授 高木桂蔵
■安岡正篤(まさひろ) 明治31年(1898)~昭和58年(1983) 陽明学者、思想家。歴代総理の指南番「一世の師表・天下の木鐸(ぼくたく)」とうたわれた。終戦の詔書に加筆し、平成の元号を提案したともいわれる。自身は「楠木正行を助けて南朝のために戦死した堀田弥五郎正泰(堀田正重の大伯父)の末裔」と常々語っていたという。昭和十年十一月二十四日、香坂昌康氏とともに井伊谷宮に参拝し、この漢詩(「童心殘筆」島津書房 掲載)を残した。
■漢詩二首目「皇子心」の前に一マス間隔を開けてあるのは、皇室への尊崇の念をあらわす。
漢詩碑建立新聞記事
■「安岡正篤先生と井伊谷宮」
昭和十年十一月二十四日 安岡正篤先生が静岡県浜松市北区引佐(いなさ)町井伊谷の井伊谷宮(いいのやぐう)に参拝された折の感慨を詠まれた漢詩である。井伊谷宮は、後醍醐天皇の第四皇子宗良親王(むねながしんのう)をご祭神とする神社。明治五年に明治天皇の思し召しにより御鎮座、翌六年には官弊中社となった。かねてより南朝の遺臣を祖先に持つことを誇りとされたときく安岡先生の、深い感慨が伝わってくる。
古くから遠州井伊谷(いいのや)の領主であった井伊(いい)氏は、宗良親王をお迎えし、北朝軍と戦った由緒ある家系である。(本年の大河ドラマ「おんな城主直虎」は、井伊直政を育てた井伊家直系の女性が主人公。直政は後に徳川家康に仕え、彦根の城主となった。地元は大変盛り上がっており、井伊谷宮への参拝者も増えている。)
宗良親王は井伊谷で戦われた後、駿河・三河・甲斐・信濃・越後など各地を転戦、長くご活躍された。数多の御歌を詠まれ、晩年には最後の勅撰和歌集とされる「新葉(しんよう)和歌集」をご編纂、南朝の人々の和歌を後世に遺された。小手指ヶ原の合戦の折詠まれた「君がため世のため何か惜しからん捨てて甲斐ある命なりせば」の御歌はあまりにも有名である。
四條畷で楠木正行とともに散った堀田弥五郎正泰を先祖に持つ安岡正篤先生と、信濃大河原で宗良親王を長年お支えした香坂高宗の末裔香坂昌康氏をお迎えして、井伊谷の地で講演会が行われたことは、かつての遺臣の子孫が再び宗良親王の元に集った、格別の出来事であった。
安岡先生の漢詩は、崇敬者の揮毫のみが神社に遺されその詳細は伝えられていなかった。
このたび古い新聞や地元の記録などを調べて、安岡先生と井伊谷宮の繋がりを知り、大変驚き、この格調高い漢詩を石碑にしたいとの声も地元から上がってきた。
宗良親王と、親王をお守りし長い年月南朝を支えた忠臣たちのお導きではないかと思う。
「郷学100号記念号」より
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